日本神道と他宗教(弐)
「穢れ」を揶揄する危うさと、日本神道が生を否定しない理由 ネット上では、ときおり日本神道における「穢れ」という概念を、無知あるいは悪意をもって揶揄する言説を見かけることがある。穢れを非科学的、差別的、遅れた思想と決めつけ、日本神道そのものを軽視するような書き方だ。しかし、そうした言説の多くは、穢れという概念を正しく理解していないことに起因している。 穢れは罪ではない。悪でもなければ、人格や道徳を評価する言葉でもない。それにもかかわらず否定的に扱われがちなのは、日本神道とは異なる宗教的価値観を、そのまま神道に当てはめてしまっているからである。その背景には、救済を中心に据える他宗教の影響が色濃く存在している。 多くの宗教、とりわけ仏教やキリスト教の系譜にある思想では、人の生は何らかの欠落や不完全さを前提にして語られる。仏教では「生は苦である」とされ、キリスト教では人は原罪を背負って生まれるとされる。生きることそのものが、すでに問題を含んでいるという前提が置かれている。 そのうえで、善行を積み、正しい信仰を持ち、修行を重ねることで、救済や解脱、極楽といった上位の状態に至ると説明される。この構造は一見すると整然としているが、そこには見過ごせない危険が潜んでいる。 仏教の一部の教義では、生きることは苦行であり、迷いであり、業を積み重ねる行為だとされる。そして善行を積み、修行を重ねれば、極楽や悟りに近づくとされている。しかしこの構造を極端に突き詰めると、不穏な結論が導き出されてしまう。 もし生きることが苦であり、業を増やす行為であり、迷いを深める原因であるならば、生きて経験を重ねるよりも、生まれてすぐに死んだ方が、より清浄な状態で死を迎えられるという解釈すら成立してしまう。これは極論ではあるが、論理的に完全には否定しきれない。 この発想が危険なのは、生を肯定するはずの思想が、生きることそのものを否定し、死を理想化する方向へ容易に転じてしまう点にある。場合によっては、他者の生を奪うことすら正当化しかねない。 実際、歴史を振り返れば、「幼くして死ねば救われる」「苦しむ前に死なせることが慈悲である」といった歪んだ思想が現実に現れた例は存在する。これは救済ではなく、明確な倫理の崩壊である。 人の行為や生を評価し、裁き、序列化する思想は、必...