媚米派の思考停止

ひろゆき氏の「外交論」は時代錯誤だ

ひろゆき氏がSNS上で、高市早苗氏の外交姿勢をめぐる一部の批判に対して自身の見解を述べた。
「外交は、外交文化のマナーと様式を踏襲する事で、話してわかる文明国なのかを西洋が判断してきた歴史があります」とし、「日本人から見て違和感だとしても、外交では『外国人から見て違和感』を減らすのが目的なのです」と投稿。さらに「鹿鳴館を作った理由として、学校で歴史の時間にやったはずなんだけどね」と付け加えた。

一見すると冷静な歴史的教訓の提示にも見えるが、その論理の根底には明治時代的な「西洋に認められたい」という従属的発想が潜んでいる。ひろゆき氏の意図は、外交における“マナー”の重要性を指摘することだろう。しかし現代日本において、その発想を無批判に持ち出すのは時代錯誤であり、国家主権を軽視する発言にもなりかねない。

鹿鳴館の時代は“必要悪”だった

ひろゆき氏が持ち出した鹿鳴館は、明治政府が西洋列強に「文明国」と認められるために建てた迎賓館である。当時、日本は不平等条約に縛られ、関税自主権も治外法権の撤廃も叶わなかった。列強の理屈に合わせなければ、独立国として扱われない時代である。

だからこそ政府は「西洋的な社交マナー」や「ドレスコード」を取り入れ、形式的にでも“文明国”の体裁を整えた。これは外交的に必要な演出であり、言うなれば“必要悪”だった。しかし、あくまでそれは「国としての立場を取り戻すための一時的な手段」であり、恒久的な服従の姿勢ではなかった。

現代日本は、もはや列強の承認を得る必要はない。主権を有し、世界第三位の経済大国として確立された国家である。にもかかわらず「外国人から見て違和感を減らすことが目的」などという発想を現代に持ち込むのは、時代背景を無視した単純化に過ぎない。

外交とは「主権と矜持」の交渉である

外交とは、礼節を尽くしつつも「自国の立場を譲らない」ことが本質である。相手国の文化や礼法を尊重することと、相手国に迎合することはまったく別物だ。

たとえば日本の代表がアメリカを訪問するならば、当然アメリカの外交儀礼に従うのがマナーだ。しかし、アメリカの代表が日本を訪れるならば、今度は日本の礼を尊重するのが筋である。外交とは、そうした「相互の尊重」の上に成り立つものであり「一方的に合わせる」ことではない。

ひろゆき氏の発言には、この“相互尊重”の視点が欠けている。あたかも「相手に合わせることこそ文明的」と言わんばかりの論調は、かつての“西洋崇拝”の残滓である。それは“マナー”の話ではなく、精神的な従属——つまり「アメリカに認められたい日本人」という構図を今も引きずっていることの表れだ。

「アメリカに合わせる外交」がもたらす弊害

戦後日本の外交は、長らく“対米従属”という構造から抜け出せずにきた。安全保障の多くを米国に依存し、外交政策の方向性もワシントンの意向に左右されてきた。それを「現実的」と呼ぶ向きもあるが、実際にはこの構造が日本の主体性を奪っている。

アメリカの意向を忖度しすぎるあまり、国際的な問題において日本の立場が曖昧になることも多い。たとえば対中政策においても、アメリカに追随する形を取ることで、日本独自の調整力を失いつつある。国内政治でも、アメリカの価値観に迎合する“リベラル風味の愛国心否定”が広がり、国の根幹となる文化的アイデンティティが薄れている。

このような流れの中で、高市早苗氏のように「日本としての立場」を明確にする政治家が現れると、必ず“右傾化”だの“排外主義”だのというレッテルが貼られる。だが本来、国家の独立と文化的自尊を守ることは、どの国でも当然の責務である。高市氏を批判し、ひろゆき氏のように「相手に合わせるのがマナー」と語る層こそ、実は“対米従属の精神構造”から抜け出せていない。

形式よりも「中身」と「軸」

外交儀礼や形式は、確かに重要だ。だがそれは「国としての品格を支える補助要素」であり、本質ではない。本来の外交とは、国家として何を守り、何を譲らないかという“軸”を明確にすることだ。

日本の強みは、古来より培われてきた礼節の文化と、調和を重んじる精神にある。これは決して西洋式の「マナー」とは同義ではない。日本的礼節とは、「相手を立てつつも自分を消さない」高度なバランスの文化であり、それを理解せずに単に“合わせること”を美徳とするのは浅薄である。

むしろ、アメリカの外交スタイルが日本の文化圏にそぐわない場面も多い。政治ショー的な演出や派手なスピーチ、自己主張の強さを前面に出す外交スタイルは、静かに誠意を示す日本の感覚とは対極にある。それをそのまま真似して「西洋的で格好いい」とする風潮こそ、文化的な自己否定に他ならない。

「ペット外交」からの脱却を

あなたの飼い犬が、主人の顔色をうかがいながら行動するように、アメリカの意向を気にして発言や政策を決めるような国は、もはや独立国家とは言えない。それが“ペット外交”だ。

ひろゆき氏や一部の批判層が示す発想は、まさにこの“ペット根性”そのものである。外交とは主従ではなく、対等なやり取りである。そして、対等であるためには、相手の文化を学ぶだけでなく、自国の文化を誇りを持って示す必要がある。

アメリカのマナーを理解することは大切だが、だからといって日本が自らの礼や形式を捨てる必要はない。むしろ「日本には日本の礼がある」と胸を張って示すことこそ、真の国際マナーである。

真の“文明国”とは

明治時代、日本は「文明国として認められること」を目指した。しかし21世紀の日本が目指すべきは「文明を自ら発信する国」である。他国に“認めてもらう”のではなく、他国が“学びたい”と思うような文化と外交を築くこと。それが、成熟した国家の在り方だ。

形式を守るだけの外交は、結局のところ“外見外交”にすぎない。重要なのは、どれだけ相手を理解し、どれだけ自国の理念をぶれずに伝えられるかである。日本が真に世界に尊敬される国となるためには、アメリカを“親”として仰ぐのではなく、対等な友人として向き合う勇気が求められる。

外交において「合わせる」ことをやめ、「示す」ことを始めたとき、日本は初めて真の意味で独立する。その一歩を阻んでいるのが、まさにひろゆき氏のような“古い文明観”なのだ。

出典:
日刊スポーツ「ひろゆき氏、高市氏外交への一部批判の声うけ持論『学校で歴史の時間にやったはずなんだけどね』」

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