他国と比べての安心は虚構

「北朝鮮よりマシ」という思考停止が、日本の貧困を見えなくする

北朝鮮で「腹いっぱい食べたかった」と語った少年たちが厳罰を受けたというニュースが報じられた。 この記事に触れ、多くの人が「日本に生まれてよかった」「民主主義でよかった」と反応するのは、ある意味では自然な感情なのかもしれない。

しかし、私はこの反応そのものに強い違和感と危うさを感じた。

確かに、日本と北朝鮮は同じではない。 体制も制度も言論の自由も生活環境も大きく異なる。 北朝鮮では国家が生活の隅々まで統制し、飢餓すら個人の罪として扱われる。 一方、日本では表向き民主主義が機能し、「腹が減った」という理由で子どもが処罰されることはない。

だが、それをもって「日本は平和」「日本は安全」「日本は問題ない」と結論づける思考こそが、最も危険だと私は考えている。

なぜなら、体制が極端に異なる国家を比較対象にすることで、日本社会が抱えている現実の問題が相対化され、見えなくなってしまうからだ。

北朝鮮のような極端な事例を引き合いに出すと、評価基準は無意識のうちに「そこまで酷くないかどうか」に引き下げられる。 子どもが処刑されていない、強制収容所がない、言論統制が露骨ではない。 そうした最低限の条件を満たしているだけで、「日本はまだマシだ」という結論に逃げ込むことができてしまう。

しかし、それは民主主義国家として本来問われるべき基準ではない。

本来問われるべきなのは、国として子どもに最低限の生活を保障できているのか、貧困が個人の自己責任として放置されていないか、制度が弱者を支える構造になっているのか、という点である。


ここで、北朝鮮の記事と日本の現実をつなぐ、非常に重要な存在がある。 それが「こども食堂」だ。

日本には現在、こども食堂が数多く存在している。 しかもその数は、すでに全国の学校数を上回っているとされている。

この事実をどう受け止めるべきなのか。

一部の似非保守と呼ばれる人々の間では、「貧困ビジネス」という言葉でこども食堂を切り捨てる論調も見られる。 善意を装った金儲けだ、補助金目当てだ、という批判だ。

しかし、その言葉が正しいか間違っているかは、本質ではない。

重要なのは、こども食堂が現実に存在しているという事実と、それを必要としている人がいるという需要の存在である。

需要がなければ、ここまで数は増えない。 一時的な流行や偽善だけで、学校数を超えるほどの施設が全国に広がることはない。

つまり、こども食堂が増えているという現象そのものが、日本社会のどこかに構造的な歪みがあることを示している。

本来、子どもが満腹になるかどうかは、国家が制度として保障すべき最低限のラインである。 それが民間の善意やボランティア、寄付に大きく依存しているという状況は、「日本人は優しい」という美談で片付けられる話ではない。

むしろそれは、制度がその役割を十分に果たしていない証拠だ。


そして、ここで多くの人が目を背けたがる事実がある。

日本が民主主義国家である以上、その制度の失策は、政府だけの責任ではない。

民主主義とは、国民が選挙を通じて政治を委ね、その結果に一定の責任を負う仕組みだ。 政策の方向性も、予算の配分も、優先順位も、すべて民意を背景に正当化されてきた。

つまり、子どもの貧困が長年改善されず、こども食堂という民間の補完装置が必要とされる社会構造ができあがった背景には、政府の政策判断、行政の優先順位、そしてそれを容認、あるいは是正できなかった国民の選択がある。

「政府が悪い」「政治家が無能だ」と言うのは簡単だ。 だが、民主主義を名乗る以上、「自分たちは無関係だ」という立場は成立しない。

ここが、北朝鮮との決定的な違いであり、同時に日本社会が最も自覚すべき点でもある。

北朝鮮であれば、失策は独裁者や体制のせいにできる。 国民には選択権がない。 だが日本では、選択権があるにもかかわらず、結果として弱者が追い込まれている現実が存在する。

その現実を直視せず、「北朝鮮よりはマシ」「日本は平和」という比較で安心してしまう思考は、極めて危険だ。

それは、日本社会が抱える問題を解決するどころか、問題を見えなくし、固定化させる。

この思考構造は、北朝鮮の体制内部で使われている論理とよく似ている。 「我々の体制は正しい」「外と比べればマシだ」「批判する必要はない」。

体制が違うだけで、思考停止の構造は驚くほど共通している。


民主主義は、問題が起きない魔法の仕組みではない。 問題が起きたときに、それを可視化し、修正し続けなければ意味を失う仕組みだ。

こども食堂が増え続けている現実は、日本がすでにその修正に失敗してきた兆候の一つとも言える。

北朝鮮の記事を読んで「可哀想だ」「日本でよかった」で終わるのは簡単だ。 だが、その瞬間に、日本社会に存在する子どもの空腹や貧困から目を逸らしているとしたら、それは決して健全な反応ではない。

体制の違いに安心するのではなく、制度の不備に向き合うこと。 他国の悲劇を消費するのではなく、自国の現実を直視すること。

それこそが、民主主義国家に生きる者に求められる最低限の態度ではないだろうか。

日本が本当に「北朝鮮とは違う国」であり続けたいのなら、比較による安心ではなく、自己批判による修正を選ぶべきだ。

その覚悟を失ったとき、民主主義という言葉は、ただの飾りに成り下がる。


参考記事
https://www.afpbb.com/articles/-/3616554

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