この季節の風物詩「恵方巻き」叩きの正体
丸かぶり寿司は誰のものか──企業が作った「恵方巻き」と、それに踊らされる人々へ
毎年、二月が近づくたびに、同じ光景が繰り返される。恵方巻きがどうの、気持ち悪いだの、日本文化ではないだの、黒くて太いものを咥えるのは卑猥だのと、決まりきった言葉がネット上に溢れ出す。それはまるで季節の風物詩のように、何も考えず反射的に吐き出される。
正直に言えば、この騒ぎには心底うんざりしている。なぜなら、その大半は食文化への批判でも、歴史への考察でもなく、思考を放棄した嫌悪感の投げつけでしかないからだ。さらに悪いことに、自分が何に怒っているのかすら理解していない声がほとんどを占めている。
まず最初に切り分けなければならない事実がある。丸かぶり寿司は、もともと商品ではない。大阪を中心とした特定の地域で、節分という年中行事の中で、家庭内や地域内で静かに行われてきた、極めて私的な祭り事である。
そこに売上目標や販売ノルマ、全国同時開催や広告コピーといった概念は、最初から存在していなかった。丸かぶり寿司は、誰かに強制されて食べるものでもなく、他人に見せるためのものでもない。ましてや、日本全体の伝統を名乗る必要もなかった。
それは地域の中で完結していた文化であり、外に向かって説明する必要すらなかった行為だった。
一方で、「恵方巻き」という言葉の正体はどうだろうか。この呼称は、古文書にも民俗学の一次資料にも、全国的な伝統名称として確認されていない。現在一般に使われている「恵方巻き」という言葉は、九〇年代以降、コンビニ業界を中心に販売促進のため整理され、全国に流通した商品名である。
これは推測でも陰謀論でもない。流通史や広告史を見れば、ほぼ異論の出ようがない事実だ。丸かぶり寿司が地域文化として存在していたことと、「恵方巻き」という名称が全国に広まったことは、まったく別の話なのである。
丸かぶり寿司は行為であり、文化だ。一方、恵方巻きは商業名称であり、販売イベントである。この二つを同一視すること自体が、すでに認識の誤りだと言える。
では、なぜ毎年二月前になると、恵方巻き批判が激化するのか。理由は単純だ。コンビニ各社が一斉に販促を始め、メディアが今年の恵方を繰り返し報じ、過去に問題化した大量廃棄の記憶が掘り起こされる。
その結果、商業倫理への不満、食品ロスへの怒り、企業体質への嫌悪が一気に噴き出す。ここまでは理解できるし、むしろ正当な問題提起ですらある。
しかし、その怒りの矛先は、なぜか丸かぶり寿司そのものや地域文化へとすり替えられていく。これは完全な論点の誤爆であり、責任の所在を見誤ったままの批判だ。
特に悪質なのが、「黒くて太いものを咥えるのは卑猥だ」「日本文化ではない」といった言説である。断言するが、これは文化批評ではない。単なる性的連想を、文化批判にすり替えているだけだ。
同じ口でフランクフルトやバナナを食べながら、それを卑猥だと感じないのであれば、卑猥さを持ち込んでいるのは行為ではなく、見る側の視線そのものだろう。
さらに言えば、日本には古来より豊穣信仰や生殖信仰が存在し、男根を象徴として祀る祭祀も各地に残っている。それらを無視した上で、太巻きを食べる行為だけを日本文化ではないと断じるのは、あまりにも日本観が貧しい。
本来、批判されるべき対象は明確だ。需要を無視した大量生産、廃棄を前提とした供給構造、伝統を名乗る曖昧な宣伝。これらはすべて、企業側の問題である。
だが、それを正面から批判するには、構造を理解し、責任の所在を考える必要がある。つまり、少し頭を使わなければならない。
そこで多くの人間は、最も楽な場所へ逃げる。「恵方巻きは気持ち悪い」「日本文化ではない」と言えば、何も考えずに正義の側に立った気分になれるからだ。
これは、企業戦略に踊らされていることにすら気づかない愚かさだと言わざるを得ない。
私にとって、丸かぶり寿司は流行でもイベントでも商売でもない。生まれた土地で、当たり前のように行われてきた行事だ。それを顔も知らない誰かが、ネット越しに「気持ち悪い」「日本文化ではない」と切り捨てる。
その無神経さに、怒りを覚えない方が不自然だろう。だが同時に、どれだけ説明しても、彼らは学ばない。彼らが守りたいのは文化ではなく、自分の不快感を正当化する言葉だからだ。
丸かぶり寿司は、誰かに理解されるために存在してきた文化ではない。恵方巻きは企業が作った商品であり、その売り方や廃棄の責任は企業が負うべきものだ。
その区別すらできず、文化を嘲笑し、地域を貶め、毎年同じ言葉を吐き続ける人間たちは、思考を放棄したまま企業戦略の上で踊っているだけである。
これはお願いでも説得でもない。一喝だ。文化を語るなら、最低限、何が文化で何が商品かを理解してから口を開け。

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