人権をお金を生む「道具」とする人々
社民党に票を取らせてはいけない理由
政治において、「人権」と「愛国」は本来、別の次元で考えなければならない概念である。人権とは、人が人として生きるための最低限の保障であり、国籍や立場を問わず守られるべき普遍的価値だ。一方、愛国とは、国家という共同体をどう維持し、どう未来へ引き継いでいくかという思想であり、主権、制度、責任と密接に結びついている。
ところが近年、日本の左翼勢力、とりわけ社民党の主張を見ていると、この二つを意図的に混同し、あらゆる問題を「人権」の名で一括処理しようとする姿勢が目立つ。その結果、本来議論されるべき国家制度や主権、安全保障の問題が封じられ、反論する側は「差別」「排外」「ヘイト」というレッテルを貼られて黙らされる構造が出来上がっている。
これは思想の成熟ではない。むしろ、思想の劣化であり、議論の放棄である。
なぜ左翼勢力は、ここまで人権という言葉に固執するのか。理由は単純だ。人権が「金」になるからである。人権問題は、補助金や助成金、委託事業、国際機関との連携、関連団体やNPOなどと結びつきやすい。一度「人権問題」と認定されれば、そこには予算が付き、仕事が生まれ、利権が形成される。
問題が解決されてしまっては困るため、問題は常に「構造的」「根深い」「終わらないもの」として再生産され続ける。本来、人権とは守るべき価値であって、金を生む手段ではない。しかし現実には、人権を掲げることで生活が成り立ち、政治活動が継続できる人間が存在する。そこに歪みが生じる。
社民党の主張を見ていると、「人権を守る」ことが目的なのか、「人権問題を維持する」ことが目的なのか、その境界が極めて曖昧になっている。
社民党が一貫して主張してきたのが、外国人参政権や、国籍に基づかない権利拡張である。しかし、国籍と権利は切り離せない。国籍とは単なる身分証ではない。それは、国家への帰属、責任、義務を引き受けるという意思表示である。
日本国籍を持つということは、法の枠組みを受け入れ、納税義務を負い、国家の失敗も成功も引き受け、その歴史と未来に責任を持つということだ。一方で、国籍を持たない者に、国民と同等の権利だけを与えるという発想は、「権利と義務の非対称性」を生む。これは国家として極めて危険な状態である。
世界の先進国を見ても、外国人に与えられる権利は厳しく制限され、国民と同等ではない。厳格な居住要件、犯罪歴の確認、国政からの排除など、明確な線引きがある。それを無視し、「海外ではやっている」「人権だから」という言葉だけで日本に導入しようとする姿勢は、制度への無理解か、あるいは意図的な歪曲でしかない。
日本には、戦後の混乱期に導入された特別永住者制度という例外的措置が存在する。本来、暫定的であるはずだった制度は、見直されることなく固定化され、二世、三世、四世へと引き継がれてきた。問題は個々の人間ではない。制度を改善せず、先送りし続けた政治の怠慢である。
その結果、権利は恒久化され、帰属は任意となり、責任は不明確なままという歪な構造が生まれ、社会的摩擦の温床となった。これは差別の問題ではない。制度設計の失敗である。にもかかわらず、社民党的な勢力は、こうした反省を踏まえることなく、さらに同じ方向へ進もうとする。過去の失敗から学ばない政治は、再び同じ轍を踏む。
医療や出産をめぐる社会保障制度においても、日本は長らく性善説で運用してきた。その結果、制度の趣旨から逸脱した利用、不正請求、形だけの居住による給付取得などが問題化してきた。これは特定の国籍の問題ではない。制度が甘ければ、必ず悪用されるというだけの話だ。
にもかかわらず、こうした問題を指摘すると、左翼勢力はすぐに「差別だ」「排外だ」と議論を封じる。制度を健全化する議論よりも、理念を振りかざす方が都合がいいからである。国家運営において、性善説は通用しない。制度は、悪用される前提で設計されなければならない。
政党は、票をくれた支持層に報いる。これは政治の原理である。社民党が票を伸ばせば、外国人参政権、国籍と権利の切り離し、社会保障のさらなる拡張、制度の厳格化より理念優先といった方向が、「是正」ではなく「正当化」される可能性が高い。
過去を見れば分かる。問題が起きても、社民党は制度を見直すのではなく、「差別をなくす」「排除しない」という言葉で包み込み、問題そのものを不可視化してきた。これは問題解決ではない。問題の温存である。
さらに気色悪いのは、票集めのために芸能人を担ぎ出す手法だ。ラサール石井のような知名度のある人物を前面に出し、「分かりやすさ」や「イメージ」で支持を集めようとする。これは思想ではない。マーケティングである。
政治が、顔と名前と感情で消費されるとき、最も被害を受けるのは国家そのものだ。中身のない主張ほど、イメージ戦略に頼る。本当に自分たちの思想に自信があるなら、制度、責任、国家観を正面から語ればいい。それが出来ないから、芸能人という「看板」を使う。その必死さ、その浅ましさが、社民党の現在地を如実に物語っている。
日本が日本であり続けるためには、国籍、主権、制度、責任を曖昧にしてはならない。人権は守る。しかし、国家は国家として守る。この二つを切り分けられない政治は、必ず社会を歪める。社民党の思想と行動は、その危険性を強く内包している。
だからこそ、社民党に票を取らせてはいけない。それは誰かを排除するためではない。日本という国家が、未来永劫、国家であり続けるためである。

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