3月3日の知的怠惰

「存在しない制度を憎み、起源を知らぬまま雛を祝うという矛盾」

毎年3月3日になると、日本各地でひな祭りが祝われる。雛人形を飾り、桃の花を添え、女児の健やかな成長を願う。いまや宗教色も政治色も薄れ、季節の年中行事として定着している光景である。

ところが、その同じ口で「天皇制反対」「天皇は時代遅れだ」「象徴天皇制は廃止すべきだ」と語る人々が、何の違和感もなくひな祭りを祝っている場面に出会うと、首をかしげざるを得ない。これは思想の自由の問題ではなく、論理的に矛盾しているかどうかという単純な問題である。


まず前提として、現在の日本に「天皇制」という名称の制度は存在しない。これは意見ではなく事実である。日本国憲法に規定されているのは「天皇」という存在であり、その地位は「日本国および日本国民統合の象徴」と定義されている。統治権も政治権限も付与されていない。

それにもかかわらず「天皇制」という言葉が使われ続けているのは、戦前の統治体制と現行憲法下の天皇を意図的に混同するための政治的レッテルに過ぎない。制度として存在しないものに反対するという主張は、概念的にも法的にも成立しない。


では、ひな祭りはどうか。ひな祭りの起源は一般に想像されているよりも古く、ルーツを辿れば中国の上巳の節句に行き着く。水辺で身を清め、穢れを祓う行事が日本に伝来し、平安時代の宮中行事と結びついていった。

日本では、紙や草で作った人形に穢れを移し、川に流す「流し雛」という形で定着していく。この段階で、ひな祭りは明確に貴族文化であり、宮中行事であった。

平安貴族の子女は、人形を使った遊びを行っていた。それが次第に儀式化し、節句と結びつき、雛人形という形式を取るようになる。ひな祭りは、宮中文化と貴族階級、そして天皇を頂点とする朝廷社会という文脈を抜きにして成立し得ない行事である。


江戸時代に入ると、雛人形は武家や町人階級にも広がり、現在につながる段飾りの形式が整えられていく。しかし、その最上段に置かれる内裏雛が何を象徴しているかは、当時も現在も変わらない。

男雛と女雛は、天皇と皇后を模した存在である。これは否定しようのない事実である。現代において象徴性を意識していないと言われることがあっても、造形や配置、その成立過程は明確にそれを示している。


ここで問題となるのは、天皇という存在や、それを中心とした文化を否定の対象としながら、その文化を起源とする行事を無自覚に享受している態度である。制度批判と文化享受を切り分けるという理屈自体は成立し得るが、それは起源と歴史を理解した上で意識的に行われている場合に限られる。

現実にはそうなっていないケースが多い。「天皇制」という言葉を用いるが現行制度を説明できない。ひな祭りの由来を知らない。内裏雛が何を象徴しているか考えたことがない。これらが同時に成立している。

批判も祝祭も、いずれも他人の言葉の受け売りである。誰かが天皇制は悪だと言ったからそう言い、誰かがひな祭りは微笑ましい日本文化だと言ったから祝う。そこに自ら調べ、整理した痕跡は見られない。


調べればすぐに分かることを調べない。制度の正式名称を確認しない。文化の成立過程を辿らない。その結果として、存在しない制度を憎み、由来を知らない行事を祝うという奇妙な姿が生まれる。

左翼か保守かという属性は本質ではない。自称保守の中にも同様の言葉を無批判に使う者は存在する。結局のところ、問題は思想ではなく、知的怠惰だ。


日本の文化や制度について語るのであれば、一次情報に当たることが最低限の前提となる。法文を読み、歴史を辿る。それだけで多くの混乱は避けられる。ひな祭りを祝うこと自体が否定されるべきものではない。

問題なのは、自分が何を批判し、何を祝っているのかを理解しないまま、雰囲気と言葉だけで立場を演じてしまうことである。本気で天皇という存在や象徴体系を否定するのであれば、ひな祭りを前にして説明責任が生じる。なぜ祝うのか。どこまでを否定し、どこまでを受け入れるのか。

それを語れないのであれば、それは思想ではなく空気への同調に過ぎない。ひな人形は黙ってそこに座っている。しかし、その背後にある歴史は沈黙していない。知らずに祝う自由はあっても、知らないこと自体が批評の対象になり得るという事実からは逃れられない。

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