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自称法治国家 -日本が完全に先進国と言えない理由-

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完全に合法ではないが、違法とも言えない──パチンコ産業が映し出す日本の民主主義の欠陥 日本には、法治国家を自称する先進国として、極めて異質な存在がある。それがパチンコ・パチスロ産業だ。この産業は、完全に合法とは言い切れない。しかし、違法とも断定されない。その曖昧さのまま、街の至る所に存在し続けている。この事実そのものが、日本の民主主義が抱える構造的欠陥を如実に示している。 本来、日本の刑法は賭博を原則として禁止している。金銭や財産的価値のあるものを賭け、偶然性によって利益を得る行為は違法である。これは法治国家として明確な原則であり、恣意的に揺らいではならないはずの基盤である。 この原則に対する例外が、公営ギャンブルだ。競馬、競輪、競艇、オートレース、宝くじなどは、すべて明確な根拠法を持ち、主体は国または地方自治体である。そして重要なのは、収益の一部が国庫や地方財政、公益目的に直接還流する仕組みを備えている点だ。国家は賭博性というリスクを正面から引き受け、その見返りとして公共性を確保している。 だからこそ、公営ギャンブルは刑法の例外として制度的に成立している。賭博であることを否定せず、その管理責任を国家が負うことで、法的整合性が保たれているのである。 では、パチンコ・パチスロはどうか。これらを正当化する特別法は存在しない。賭博性を公然と認めた上での合法化もなされていない。最高裁判例においても、パチンコを積極的に合法と認定したものはなく、判断は常に消極的なものにとどまっている。 換金の事実を認定しなかった、あるいは賭博性を立証できなかったという形で、正面からの判断は回避され続けてきた。合法性が確認されたのではなく、違法性が断定されなかっただけである。 それでもパチンコが「合法のように」存在している理由は、風俗営業法における遊技場営業として扱われている点に尽きる。本来、風営法は賭博を許容するための法律ではない。にもかかわらず、遊技という名目のもとに、実質的なギャンブルが押し込められてきた。 産業が巨大化し、違法と断定すれば社会的影響が大きすぎる段階に至った結果、法が実態に合わせて歪められた。この逆転した法形成は、日本の法制度が問題を正面から整理できなかった証拠である。 この曖昧さを制度的に支えているのが、いわゆる三店方式だ。店内...

グリ下殺人事件の記事を読み思うこと

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道頓堀殺人事件と「グリ下」という象徴 見えていなかったもの、見ようとしなかったもの 今回の大阪・道頓堀で起きた殺人事件は、単なる一つの凶悪事件として消費されるべきものではないと私は考えている。もちろん、命が奪われた事実そのものは重く、被害者や家族の悲しみは計り知れない。しかし、その背景を見ずに「最近は治安が悪い」「グリ下は危険だ」といった表面的な言葉だけが独り歩きすることには強い違和感を覚える。 事件が起きた場所は、いわゆる「グリ下」と呼ばれるグリコ看板下周辺である。観光地として世界的に知られ、昼夜を問わず人が行き交う場所だ。しかし同時に、昔からその場所をよく知るものとしては、決して無菌状態のエリアではなかった。薬物の取引、家出少年少女のたまり場、客引き、半グレ的集団の出入り。そうした空気は、少なくとも三十年以上前から存在している。 にもかかわらず、事件が起きるたびに「最近のグリ下は近づかない方がいい」「治安が悪化している」と書く記事を見ると、まるで以前は安全で平穏な場所だったかのような印象操作が行われているように感じる。 本当に「最近」なのか。 ミナミ、道頓堀周辺は、三十年以上前から危ない。夜の顔と昼の顔を持つ街であり、観光地であると同時に裏の経済が動く場所でもあった。酔客同士の喧嘩、恐喝まがいのトラブル、暴力団関係者の出入り。これらは決して目新しいものではない。 では、何が変わったのか。 私は、変わったのは「危険の存在」そのものではなく、「危険の管理構造」だと考えている。 暴対法が施行され、さらに暴力団排除条例が広がって以降、日本社会は暴力団という存在を徹底的に排除する方向へ舵を切った。それ自体は、理念としては理解できる。暴力団は違法行為を行う組織であり、被害者も多い。 しかし、ここで重要なのは、暴力団を肯定するか否定するかではない。暴力団が社会に与えていた構造的影響を冷静に見る必要があるということだ。 暴力団は、警察に把握される存在だった。構成員や準構成員は名簿化され、組織の系譜も把握され、事務所の所在地も明確だった。指定暴力団という枠組みの中で、警察は「どこに誰がいるか」をある程度管理できていた。 さらに、暴力団には暴力団なりの内部ルールがあった。勝手な暴走は制裁対象になり、シマの秩序を乱す行為は組織の不利益にな...

人権をお金を生む「道具」とする人々

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社民党に票を取らせてはいけない理由 政治において、「人権」と「愛国」は本来、別の次元で考えなければならない概念である。人権とは、人が人として生きるための最低限の保障であり、国籍や立場を問わず守られるべき普遍的価値だ。一方、愛国とは、国家という共同体をどう維持し、どう未来へ引き継いでいくかという思想であり、主権、制度、責任と密接に結びついている。 ところが近年、日本の左翼勢力、とりわけ社民党の主張を見ていると、この二つを意図的に混同し、あらゆる問題を「人権」の名で一括処理しようとする姿勢が目立つ。その結果、本来議論されるべき国家制度や主権、安全保障の問題が封じられ、反論する側は「差別」「排外」「ヘイト」というレッテルを貼られて黙らされる構造が出来上がっている。 これは思想の成熟ではない。むしろ、思想の劣化であり、議論の放棄である。 なぜ左翼勢力は、ここまで人権という言葉に固執するのか。理由は単純だ。人権が「金」になるからである。人権問題は、補助金や助成金、委託事業、国際機関との連携、関連団体やNPOなどと結びつきやすい。一度「人権問題」と認定されれば、そこには予算が付き、仕事が生まれ、利権が形成される。 問題が解決されてしまっては困るため、問題は常に「構造的」「根深い」「終わらないもの」として再生産され続ける。本来、人権とは守るべき価値であって、金を生む手段ではない。しかし現実には、人権を掲げることで生活が成り立ち、政治活動が継続できる人間が存在する。そこに歪みが生じる。 社民党の主張を見ていると、「人権を守る」ことが目的なのか、「人権問題を維持する」ことが目的なのか、その境界が極めて曖昧になっている。 社民党が一貫して主張してきたのが、外国人参政権や、国籍に基づかない権利拡張である。しかし、国籍と権利は切り離せない。国籍とは単なる身分証ではない。それは、国家への帰属、責任、義務を引き受けるという意思表示である。 日本国籍を持つということは、法の枠組みを受け入れ、納税義務を負い、国家の失敗も成功も引き受け、その歴史と未来に責任を持つということだ。一方で、国籍を持たない者に、国民と同等の権利だけを与えるという発想は、「権利と義務の非対称性」を生む。これは国家として極めて危険な状態である。 世界の先進国を見ても、外国人に与えられ...

化石燃料は必ず尽きる

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それでも日本は「利権の言い換え」に終始し、未来を設計しない 石油をはじめとする化石燃料が、いずれ枯渇することは誰もが知っている事実である。それは環境活動家だけの主張でもなければ、極端な思想の産物でもない。物理的に有限であり、再生しない資源を使い続けている以上、時間の問題として必ず終わりが来る。これは科学の話であり、信条や好みの問題ではない。 にもかかわらず、現代社会、とりわけ日本におけるエネルギー議論を見ていると、「枯渇後の社会をどう設計するか」という本来最優先であるべき視点が、驚くほど軽視されているように見える。議論の中心にあるのは、エネルギーの種類そのものではなく、「どの利権が残るか」「どの利権を叩くか」という争いばかりである。 原子力発電を巡る議論は、その典型だ。危険か安全か、是か非かという二元論で語られ、感情的なレッテル貼りが繰り返される。一方で、太陽光発電や風力発電といった再生可能エネルギーは、「クリーン」「未来」「正義」といった言葉で語られ、問題点が十分に検証されないまま推進されてきた。 しかし冷静に見れば、これは技術論争ではない。「古い利権」と「新しい利権」の置き換えに過ぎない側面が強い。原子力発電には、電力会社、重電メーカー、官僚機構、研究機関といった、長年形成されてきた巨大な既得権益が存在する。一方で、再生可能エネルギーにも、発電事業者や投資ファンド、不動産関連、海外メーカーなど、新たな利権構造が生まれている。 後者は「新しい」「環境に良い」という物語に包まれているため、批判されにくい。だが、補助金や固定価格買取制度、電気料金への上乗せという形で、国民が負担している構造は変わらない。利益を得る主体が入れ替わっただけで、「国民がコストを背負う」という本質は同じである。 さらに問題なのは、太陽光発電における廃棄問題や防災問題が、原子力の使用済み燃料問題ほど真剣に語られていない点だ。太陽光パネルにも寿命があり、いずれ大量の廃棄物になる。有害物質を含むものもあり、処理にはコストと責任が伴う。それにもかかわらず、「再エネだから大丈夫」という曖昧な安心感のもと、議論は先送りされている。 結局のところ、原子力であれ太陽光であれ、「建設・運用・廃棄」まで含めた長期的な責任を真正面から議論していない点では同じである。...

太田光氏炎上の経緯と政治家の公約責任

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公約と責任、そして民主主義の信頼 今回炎上している発端は、TBSの選挙特番において、太田光氏が高市早苗氏に対し「公約を守れなかった場合、どう責任を取るのか」と問いかけた場面である。選挙直後の祝勝ムードの中でのやり取りが放送され、その一部がSNS上で切り取られ拡散されたことで、議論は一気に広がった。 表面的には一つの質問に対する賛否の対立のように見える。しかし実際には、より深い論点が含まれている。「公約を掲げた以上、実現できなかった場合の責任を問うのは当然だ」という意見がある一方で、「祝勝の場で失敗を前提にした問いを投げるのは不適切だ」という批判もある。さらに、公共の電波という場で特定の人物だけを強く追及する姿勢の妥当性が問われた。 太田氏が、公約を宣言したすべての議員に対して同じ基準で問いを投げかけているのであれば、ここまでの反発は起きなかったはずである。公約と責任を問う姿勢そのものは、民主主義において本来必要な機能だからだ。 しかし実際には、公共の電波を私物化し、特定の人物だけを吊し上げる形に見えたことが問題視された。公平性が担保されているのかという疑問が生じたことが、今回の炎上の核心であったと私は考えている。 では、本質的な問題は何か。それは公約未達の責任をどう考えるかという点にある。政治家は選挙のたびに公約を掲げる。しかし多くの場合、それは努力目標として扱われ、実現できなくても法的責任が問われることはほとんどない。最終的な評価は次の選挙に委ねられるというのが現行制度の前提である。 だが、現実には同じような公約が繰り返され、結果が伴わないまま終わる事例も少なくない。その積み重ねが有権者の不信感を増幅させている可能性は高い。問題は失敗そのものではない。実現可能性をどこまで検証したのか、困難が予見できたのか、それでも断定的に掲げたのかという誠実さの問題である。 公約は法律ではない。契約書でもない。法的拘束力は基本的に存在しない。しかし、それは単なる宣伝文句でもない。有権者は公約を判断材料に投票し、その一票によって政治権力を委ねている。公約は事実上の約束であり、道義的な重みを持つ。 民間社会において、約束を前提に相手の判断を左右した場合、その結果に対する責任は厳しく問われる。虚偽説明や実現不能と知りながらの約束は重大な問題となる。政...

氏名は誰のものか

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松田聖子の商標問題から見える、日本の商標法改正と海外制度との決定的な違い 芸能人・松田聖子が自身の芸名を商標登録しようとしたところ、「本人と断定できない」という理由で特許庁から拒絶理由通知を受けた、というニュースは、一見すると奇妙に映る。国民的スターとして数十年にわたり活動してきた人物が、なぜ「本人であること」を改めて証明しなければならないのか。 しかしこの出来事は、単なる手続き上の行き違いではない。そこには、日本の商標法が近年の改正によって大きく性格を変えたこと、そしてその結果として新たな問題の芽を内包するようになった現実が、象徴的に表れている。 本稿では、この松田聖子の事例を起点に、日本の商標法改正の中身とその影響、さらに海外の「名前の商標制度」との違いを比較しながら、今後どのような問題が発生し得るのかを整理する。 従来の日本の商標法では、氏名や芸名といった「人の名前」を商標登録する際、同姓同名の人物が存在する場合、その全員の承諾が事実上必要とされるなど、非常に厳格な運用がなされてきた。この制度は、第三者によるなりすましや便乗を防ぐという点では安全側に倒れていた一方で、本人であっても権利化が困難になるという問題を抱えていた。 特に、芸能人や作家、配信者など、名前そのものが経済的価値を持つ職業においては、「自分の名前なのに商標として守れない」という矛盾が顕在化していた。 こうした背景から、2024年に商標法が改正され、同姓同名者全員の承諾を必須としない、不正目的や混同のおそれがなければ登録を認めるという、より柔軟な制度へと舵が切られた。 表面的には「本人が登録しやすくなった」改正であり、実際その側面は否定できない。 しかし、制度が緩くなるということは、同時に「防波堤が下がる」ということでもある。松田聖子の件で特許庁が「本人と断定できない」として宣誓書を求めたのは、まさにこの緩和の副作用だ。 以前であれば、著名人の名前はそもそも第三者が出願しにくかった。ところが現在は、「形式的に整った出願」であれば、まず通してから問題があれば争う、という構造に近づいている。 その結果として想定されるのが、同姓同名の別人が異なる分野で名前を商標登録する、配信者やインフルエンサーが本名で活動しグッズを販売する、消費者が...

日本神道と他宗教(弐)

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「穢れ」を揶揄する危うさと、日本神道が生を否定しない理由 ネット上では、ときおり日本神道における「穢れ」という概念を、無知あるいは悪意をもって揶揄する言説を見かけることがある。穢れを非科学的、差別的、遅れた思想と決めつけ、日本神道そのものを軽視するような書き方だ。しかし、そうした言説の多くは、穢れという概念を正しく理解していないことに起因している。 穢れは罪ではない。悪でもなければ、人格や道徳を評価する言葉でもない。それにもかかわらず否定的に扱われがちなのは、日本神道とは異なる宗教的価値観を、そのまま神道に当てはめてしまっているからである。その背景には、救済を中心に据える他宗教の影響が色濃く存在している。 多くの宗教、とりわけ仏教やキリスト教の系譜にある思想では、人の生は何らかの欠落や不完全さを前提にして語られる。仏教では「生は苦である」とされ、キリスト教では人は原罪を背負って生まれるとされる。生きることそのものが、すでに問題を含んでいるという前提が置かれている。 そのうえで、善行を積み、正しい信仰を持ち、修行を重ねることで、救済や解脱、極楽といった上位の状態に至ると説明される。この構造は一見すると整然としているが、そこには見過ごせない危険が潜んでいる。 仏教の一部の教義では、生きることは苦行であり、迷いであり、業を積み重ねる行為だとされる。そして善行を積み、修行を重ねれば、極楽や悟りに近づくとされている。しかしこの構造を極端に突き詰めると、不穏な結論が導き出されてしまう。 もし生きることが苦であり、業を増やす行為であり、迷いを深める原因であるならば、生きて経験を重ねるよりも、生まれてすぐに死んだ方が、より清浄な状態で死を迎えられるという解釈すら成立してしまう。これは極論ではあるが、論理的に完全には否定しきれない。 この発想が危険なのは、生を肯定するはずの思想が、生きることそのものを否定し、死を理想化する方向へ容易に転じてしまう点にある。場合によっては、他者の生を奪うことすら正当化しかねない。 実際、歴史を振り返れば、「幼くして死ねば救われる」「苦しむ前に死なせることが慈悲である」といった歪んだ思想が現実に現れた例は存在する。これは救済ではなく、明確な倫理の崩壊である。 人の行為や生を評価し、裁き、序列化する思想は、必...

日本神道と他宗教(壱)

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「正しい参拝作法」を語ることこそが、日本神道に対して失礼である理由 よく個人ブログなどで見かける「神社への参拝はこうしないと失礼」といった書き方こそが、実は日本神道を理解しておらず、むしろ日本神道に対して失礼である。鳥居のくぐり方、手水の順番、拍手の回数などを「正解」として並べ、それを守らなければならないかのように語る文章には、常に強い違和感を覚える。 それらの文章は一見すると親切な解説のように見えるが、よく考えればおかしな点が多い。もし本当に「正しい参拝方法」が存在し、それを守らなければ失礼になるのだとしたら、誰がそれを裁くのかという問題が必ず生じる。しかし日本神道において、参拝の作法を理由に人を裁く主体は存在しない。 日本神道にも確かに作法は存在する。しかしそれは規範でも教義でもなく、ましてや信仰の優劣を測る物差しでもない。作法とはあくまで、場を荒らさず、他の参拝者と摩擦を起こさず、自分自身の気持ちを整えるための目安に過ぎない。 作法を守らなかったからといって、誰かに咎められることはないし、神から罰せられることもない。知らなかった、慣れていなかった、形式を間違えたといったことは、日本神道の構造上、罪にも不敬にもならない。この「裁かれなさ」こそが、日本神道の根本的な特徴である。 日本神道の死生観を象徴する存在として、黄泉の国が語られる。黄泉の国は天国でも地獄でもなく、善悪を裁く場所でも、修行や救済の場でもない。そこはただ、死んだ者が行き着く不可逆の世界として描かれている。 黄泉の国に行く理由は、罪や業ではない。善人であろうが悪人であろうが、努力した者であろうが怠けた者であろうが、死ねば等しく黄泉へ行く。この考え方には「正しく生きよ」「徳を積め」といった価値判断が最初から存在していない。 黄泉の国は、死を死として受け止めるための神話的な説明装置であり、人を選別したり評価したりするための概念ではない。この点を理解しないまま神道を語ると、必ず別の宗教的価値観を持ち込むことになる。 黄泉の国と深く結びついている概念が「穢れ」である。穢れとは、死や血、異界に触れたことによって生じる状態の変化を指す言葉であり、罪や悪、修行不足を意味するものではない。 そのため日本神道において、穢れは苦行によって克服する対象にはならない。必要なの...

この季節の風物詩「恵方巻き」叩きの正体

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丸かぶり寿司は誰のものか──企業が作った「恵方巻き」と、それに踊らされる人々へ 毎年、二月が近づくたびに、同じ光景が繰り返される。恵方巻きがどうの、気持ち悪いだの、日本文化ではないだの、黒くて太いものを咥えるのは卑猥だのと、決まりきった言葉がネット上に溢れ出す。それはまるで季節の風物詩のように、何も考えず反射的に吐き出される。 正直に言えば、この騒ぎには心底うんざりしている。なぜなら、その大半は食文化への批判でも、歴史への考察でもなく、思考を放棄した嫌悪感の投げつけでしかないからだ。さらに悪いことに、自分が何に怒っているのかすら理解していない声がほとんどを占めている。 まず最初に切り分けなければならない事実がある。丸かぶり寿司は、もともと商品ではない。大阪を中心とした特定の地域で、節分という年中行事の中で、家庭内や地域内で静かに行われてきた、極めて私的な祭り事である。 そこに売上目標や販売ノルマ、全国同時開催や広告コピーといった概念は、最初から存在していなかった。丸かぶり寿司は、誰かに強制されて食べるものでもなく、他人に見せるためのものでもない。ましてや、日本全体の伝統を名乗る必要もなかった。 それは地域の中で完結していた文化であり、外に向かって説明する必要すらなかった行為だった。 一方で、「恵方巻き」という言葉の正体はどうだろうか。この呼称は、古文書にも民俗学の一次資料にも、全国的な伝統名称として確認されていない。現在一般に使われている「恵方巻き」という言葉は、九〇年代以降、コンビニ業界を中心に販売促進のため整理され、全国に流通した商品名である。 これは推測でも陰謀論でもない。流通史や広告史を見れば、ほぼ異論の出ようがない事実だ。丸かぶり寿司が地域文化として存在していたことと、「恵方巻き」という名称が全国に広まったことは、まったく別の話なのである。 丸かぶり寿司は行為であり、文化だ。一方、恵方巻きは商業名称であり、販売イベントである。この二つを同一視すること自体が、すでに認識の誤りだと言える。 では、なぜ毎年二月前になると、恵方巻き批判が激化するのか。理由は単純だ。コンビニ各社が一斉に販促を始め、メディアが今年の恵方を繰り返し報じ、過去に問題化した大量廃棄の記憶が掘り起こされる。 その結果、商...