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1月, 2026の投稿を表示しています

偏向報道と機能不全の放送法

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「よんチャンTV」偏向報道炎上はなぜ繰り返されるのか──放送法の機能不全とBPO、政治の責任 今回、関西のテレビ局が放送した情報番組をきっかけに、X上で偏向報道ではないかという批判が炎上した。問題となったのは、毎日放送の情報番組「よんチャンTV」である。ローカル番組でありながら、切り抜き画像や短い動画が拡散され、議論は全国的な規模に広がった。 この件を単なる表現の行き過ぎや制作側の不注意として片付けるのは容易だ。しかし、今回の炎上は偶発的な事故ではない。日本の放送制度が長年抱えてきた機能不全が、表に出ただけの出来事である。 まず確認すべき前提がある。放送法には、政治的公平性や報道の中立性に関する記述が存在する。偏向報道を避けるべきだという理念は、法文上は明確に書かれている。 しかし現実には、偏向報道と指摘される事例が繰り返し発生してきたにもかかわらず、放送法に基づく実効性のある罰則が適用された例はほとんどない。法は存在するが、運用されていない。これは法が機能していない状態に等しい。 法が機能していなければ、抑止力は働かない。偏向しても謝罪で終わる。この構造が長年温存されてきた結果、同じ問題が繰り返される土壌が作られてきた。 その上で、今回の番組内容を整理する。問題視されたのは、衆議院選挙を巡る解説コーナーにおいて、政党や政治的立場を「優しい日本」と「強くてこわい日本」という対比で示したフリップ表現である。 この表現は政策の比較ではない。価値判断を伴う言葉を用い、視聴者の感情に直接働きかける構造になっていた。「こわい」という言葉は、不安や危険といった否定的印象を強く喚起する。 選挙報道において、このような表現で政治的立場を色分けすることは、視聴者の判断を誘導する危険性を伴う。偏向報道だと批判されたのは、制度的前提を踏まえれば当然の反応である。 この放送を受け、Xでは「解説ではなく印象操作だ」「選挙報道として公平性を欠いている」といった声が急速に広がった。番組を見ていなかった層にも、切り抜き画像や短い動画によって問題点が共有された。 炎上が拡大した背景には、過去にも同様の問題が何度も起き、そのたびに根本的な是正が行われなかったという記憶の蓄積がある。視聴者は今回が初めてだとは思っていない。 批判を受け、番組側は...

他国と比べての安心は虚構

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「北朝鮮よりマシ」という思考停止が、日本の貧困を見えなくする 北朝鮮で「腹いっぱい食べたかった」と語った少年たちが厳罰を受けたというニュースが報じられた。 この記事に触れ、多くの人が「日本に生まれてよかった」「民主主義でよかった」と反応するのは、ある意味では自然な感情なのかもしれない。 しかし、私はこの反応そのものに強い違和感と危うさを感じた。 確かに、日本と北朝鮮は同じではない。 体制も制度も言論の自由も生活環境も大きく異なる。 北朝鮮では国家が生活の隅々まで統制し、飢餓すら個人の罪として扱われる。 一方、日本では表向き民主主義が機能し、「腹が減った」という理由で子どもが処罰されることはない。 だが、それをもって「日本は平和」「日本は安全」「日本は問題ない」と結論づける思考こそが、最も危険だと私は考えている。 なぜなら、体制が極端に異なる国家を比較対象にすることで、日本社会が抱えている現実の問題が相対化され、見えなくなってしまうからだ。 北朝鮮のような極端な事例を引き合いに出すと、評価基準は無意識のうちに「そこまで酷くないかどうか」に引き下げられる。 子どもが処刑されていない、強制収容所がない、言論統制が露骨ではない。 そうした最低限の条件を満たしているだけで、「日本はまだマシだ」という結論に逃げ込むことができてしまう。 しかし、それは民主主義国家として本来問われるべき基準ではない。 本来問われるべきなのは、国として子どもに最低限の生活を保障できているのか、貧困が個人の自己責任として放置されていないか、制度が弱者を支える構造になっているのか、という点である。 ここで、北朝鮮の記事と日本の現実をつなぐ、非常に重要な存在がある。 それが「こども食堂」だ。 日本には現在、こども食堂が数多く存在している。 しかもその数は、すでに全国の学校数を上回っているとされている。 この事実をどう受け止めるべきなのか。 一部の似非保守と呼ばれる人々の間では、「貧困ビジネス」という言葉でこども食堂を切り捨てる論調も見られる。 善意を装った金儲けだ、補助金目当てだ、という批判だ。 しかし、その言葉が正しいか間違っているかは、本質ではない。 重要なのは、こども食堂が現実に存在しているという事実と、それを必...

AIと呪文

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LLMをAIと呼び、プロンプトを呪文と言い続ける人たちが存在する理由についての憶測 生成系の分野では長いあいだ、「AIが画像を作る」「プロンプトは呪文だ」という言葉が当たり前のように使われてきた。私自身も、最初はその表現に惹かれた側の人間である。呪文という言葉には、未知の技術に対するロマンがあり、創作行為を魔法のように感じさせる力があったからだ。 しかし実際に大規模言語モデルを使い続け、プロンプトを試行錯誤し、失敗の理由を検証し、再現性を確認する段階に入ったとき、その言葉遣いに対して強い違和感を覚えるようになった。なぜ、いまだに大規模言語モデルをAIと呼び続けるのか。なぜ、いまだにプロンプトを呪文と呼び続けるのか。本稿は、その理由についての憶測を、構造の観点から整理したものである。断定ではないが、単なる感想でもない。 まず前提として、大規模言語モデルは人工知能ではない。思考もしなければ、理解もしない。意思や意図を持つこともない。大量のデータから次に続く単語の確率を計算し、文章として成立する形を出力しているだけのシステムである。これは思想の話ではなく、仕組みの説明だ。 それにもかかわらず、世間では今もなお「AIが判断した」「AIが考えた」という表現が使われ続けている。この言葉遣いは、単なる省略や誤解では済まされない効果を持つ。主体が存在するかのような錯覚を与え、人間の設計や指示という前提を見えにくくし、結果だけを切り離して語ることを可能にする。 プロンプトも同じ構造にある。本来、プロンプトは条件指定であり、指示文であり、調整と検証が可能な技術要素である。どの言葉を使い、どの条件を優先し、何を排除するか。その積み重ねによって結果が変わる以上、そこには因果関係が存在する。 しかしそれを呪文と呼んだ瞬間、理解の方向性は変わる。なぜ成功したのかを考えなくなり、なぜ失敗したのかを検証しなくなる。再現できない結果であっても、感覚やセンスという言葉で処理され、技術として分解されることはない。こうしてプロンプトは、共有可能な技術ではなく、属人化されたおまじないへと変質していく。 ここで重要なのは、言語は常に選択の結果だという点である。特に、商用、発信、収益が絡む場面で繰り返し使われる言葉に、偶然はほとんど存在しない。もしプロンプト...

IQ=優れている?

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「IQが高い=人間的に優れている」という誤解は、なぜここまで広がったのか 「IQが高い人は優れている」。この言葉は、疑われることもなく使われ続けてきた。しかし本当にそうなのかという疑問を持たずに受け入れられてきたこと自体が、すでに問題の核心を示している。 人間的に優れているとは何かを考えたとき、危機管理能力、判断力、人間関係能力、この三つが高い人間こそが現実社会で信頼され、生き残っているという感覚は、多くの経験則と一致する。それにもかかわらず、IQという一つの数値が、それらを差し置いて「優秀さ」の代名詞のように扱われてきた。 まず前提として、IQが何を測っている指標なのかを正確に理解する必要がある。IQは論理的推論、パターン認識、処理速度、作業記憶など、限定された認知能力を数値化したものであり、人間の能力全体を測定するものではない。 本来は「知能の一側面」を示すに過ぎない指標であったはずのIQが、いつの間にか「頭の良さの総合点」や「人間の価値そのもの」を示すかのように扱われるようになった。このすり替えが、後の誤解を連鎖的に生み出していく。 IQが重視されるようになった最大の理由は、その本質的な重要性ではなく、扱いやすさにあった。危機管理能力や判断力、人間関係能力は、状況や文脈に強く依存し、短時間で数値化することが極めて難しい。 一方でIQは、短時間で測定でき、標準化され、比較可能な数値として扱える。大量の人間を一括で評価し、序列を作るには非常に都合が良かった。IQが選ばれた理由は、価値の高さではなく、管理と選別の容易さにあった。 この流れを決定的に固定化したのが、学校教育と試験制度である。学校では、正解が一つの問題を早く正確に解く能力が評価される。これはIQテストと非常に親和性が高い。 点数が高いこと、成績が良いこと、試験に強いことが、そのまま「優秀」「頭が良い」「将来有望」という評価に直結していった。しかし現実社会では、試験の点数が高いだけで危機を回避できる場面はほとんど存在しない。 さらに誤解を増幅させたのが、メディアとフィクションである。映画やドラマでは、IQが高い人物は万能な天才として描かれることが多い。複雑な問題を瞬時に解決し、すべてを支配する存在として描写される。 現実には、高IQであっても判断を誤...

「海外で人気」は誰が決めているのか?

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欧米で実際に消費されている日本のお菓子と、テレビが作る“外国人人気”の決定的な違い 日本のテレビ番組やネット記事では、定期的に「海外で人気の日本のお菓子」という特集が組まれる。ランキング形式で商品が紹介され、スタジオでは「外国人にも大人気」「やっぱり日本のお菓子はすごい」といったコメントが添えられる光景は、もはやおなじみだ。 しかし私は、こうしたランキングをほとんど信用していない。その理由は、その「人気」が誰の視点で決められているのかが曖昧だからである。本当に欧米の消費者側から自然に生まれた評価なのか、それとも日本側が作り上げた物語なのか。その区別が、テレビ番組では一切なされていない。 今回私は、日本発の情報を意識的に排除し、欧米のサイトや個人ブログ、レビュー記事のみを見て調べた。もちろん、これは完璧な統計ではない。ネット上の公開情報に限られる以上、正確性には限界がある。 それでも重要なのは、スポンサーや企業、番組構成の意図を汲む必要が一切ないという点だ。欧米側の記事やブログで頻繁に登場していたのは、日本人が想像する高級なお土産ではなく、日常的に食べられるスナック菓子だった。 言及頻度や扱われ方を基準に整理すると、欧米側で実際に消費されている日本企業のお菓子として目立っていたのは、ポッキーやプレッツ、カルビー系のスナック、煎餅、ハローパンダといった顔ぶれである。 ここで注目すべきなのは、キットカットがこの文脈では前面に出てこないという点だ。欧米側のサイトでは、キットカットが「日本のお菓子ランキングの主役」として扱われることはほとんどない。 評価されているのは、味が分かりやすく、説明が不要で、欧米のスーパーの棚に自然に溶け込む商品である。日本らしさや文化的背景は、ほとんど重視されていない。 ハローパンダのように、日本企業の商品でありながら日本国内ではほぼ流通していないものが、普通に「Japanese snack」として語られている点も象徴的だ。ここには、日本側の誇りや演出が入り込む余地はほとんどない。 一方、日本のテレビ番組や情報バラエティで繰り返し提示される「海外で人気」のランキングは、まったく異なる姿をしている。よく見かけるのは、次のような並びだ。 第1位:キットカット。第2位:白い恋人。第3位:東京バナナ。第4位:...

雑学(ココアパウダー、カカオパウダー)

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純ココアと低脂肪ココアの違いを整理する 価格・製造工程・味・評価から見える「立ち位置」 ココアパウダーと一口に言っても、店頭には「純ココアパウダー」と「低脂肪ココアパウダー」という二つの種類が並んでいることが多い。見た目はほとんど同じで、原材料表示も「カカオ豆」としか書かれていない場合が多いため、違いが分かりにくいと感じる人も少なくない。 しかし価格を見ると、同じ内容量であっても低脂肪ココアパウダーの方が安いケースが目立つ。これは品質の違いなのか、それとも製造上の理由なのか。ここでは、純ココアパウダーと低脂肪ココアパウダーの違いを、価格、製造工程、位置づけ、味の評価、健康志向という観点から整理していく。 まず前提として、純ココアパウダーと低脂肪ココアパウダーは、原料そのものに違いはない。どちらもカカオ豆を原料としており、製造工程の前半は共通している。 カカオ豆は発酵、乾燥、焙煎を経て粉砕・摩砕され、「カカオマス」と呼ばれる状態になる。この段階のカカオマスには、およそ50%前後の脂肪分、すなわちココアバターが含まれている。 両者の違いが生まれるのは、その後の圧搾工程である。ここでどれだけ脂肪分を取り除くかによって、最終的な性質が分かれていく。 純ココアパウダーは、圧搾を比較的弱めに行い、脂肪分を20〜25%程度残した状態で粉砕されたものだ。そのため、コクがあり、口当たりがまろやかになりやすい。 一方、低脂肪ココアパウダーは、より強い圧搾によって脂肪分を10〜12%程度まで減らした状態で作られる。原料は同じでも、途中でどれだけ脂肪を抜くかという工程の違いが、性質の違いにつながっている。 ここで疑問になるのが、なぜ低脂肪ココアパウダーの方が価格が安いのかという点だ。その理由は、ココアバター自体の市場価値にある。 ココアバターはチョコレート製造だけでなく、化粧品や医薬用途など幅広い分野で使われる高付加価値原料であり、世界的に安定した需要がある。そのため、製造側にとっては非常に重要な収益源となる。 低脂肪ココアパウダーは、この高価なココアバターを多く取り除いた後に残る固形分を粉砕したものだ。ココアバターは別用途で販売できるため、パウダー自体は安価に設定しても全体として採算が取れる構造になっている。 ...

楽天LLMの記事がネタにしか見えない件

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日本語対応では足りない。楽天LLMに決定的に欠けているもの 近年、大規模言語モデルという言葉は特別なものではなくなった。国内外を問わず多くの企業が開発に参入し、ユーザー側も「使えるかどうか」を基準に冷静に選別する段階に入っている。その流れの中で、日本企業によるLLM開発についても、期待や応援とは別に、実際に何を提供しているのかを見極める必要があると感じている。 私は楽天市場を中心に、楽天銀行や楽天モバイルを日常的に利用している。いわゆる楽天経済圏のユーザーであり、ポイント制度やグループ連携の利便性についても理解し、現実的な恩恵を受けている立場だ。その上で、楽天が公開しているLLMを実際に使ってみた経験がある。 結論から言えば、楽天のLLMを使って「これは必要だ」と感じた場面はなかった。何度か試したが、そこでできることは商品説明の要約や一般的な調べ物、FAQの整理といった範囲に収まっていた。これらはすでに他のLLMで十分に可能であり、楽天LLMだからこそ得られる体験は見当たらなかった。 楽天LLMで調べられる内容は、楽天がすでに公開している情報に限られている。非公開情報に踏み込めるわけでもなく、個人の購買履歴や金融・通信・ECを横断した実質的な分析を行ってくれるわけでもない。結局のところ、公式サイトに書かれている内容を別の形で整理しているだけに見える。 この構造では、「楽天LLMである必然性」がユーザー側に生まれない。楽天でなければできないことが存在しない以上、わざわざ楽天LLMを選ぶ理由は薄れていく。楽天経済圏のユーザーであっても、その判断は変わらない。 記事では「日本語に対応している」点が強調されているが、この表現もすでに差別化にはなっていない。ChatGPTやGeminiは、日本語の読解、生成、要約において実用上ほぼ完全に対応している。日常利用や業務利用のどちらにおいても、日本語が使えることは前提条件に過ぎない。 さらに、比較対象としてGPT-4世代が用いられている点にも違和感を覚える。現在の主流はすでに次の世代に進んでおり、1世代前のモデルと比較して優位性を示しても、説得力は弱い。技術的な問題というより、見せ方として慎重さを欠いている印象を受ける。 では、日本企業がLLMを開発する意味はどこにあるのか。日本語対応では...

今更だが…フォロワー数=人気という幻想

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X・Instagram・楽天ROOMに共通する「数字が意味を失った時代」 インターネット上では長らく、フォロワー数が多い人ほど人気があり、影響力があり、信頼できるという考え方が常識のように語られてきた。検索すれば、今でもそのような説明をする記事や、集約された要約回答が数多く見つかる。しかし、ネットを日常的に使い、運用や商用利用を経験している人ほど、この説明に強い違和感を覚えているはずだ。 結論から言えば、現在のネットにおいてフォロワー数は人気とほとんど関係がない。これは一部の例外的な現象ではなく、X、Instagram、楽天ROOMといった性質の異なるプラットフォームすべてに共通する事実である。 かつてのSNSでは、フォロワー数はある程度「人気」の指標として機能していた。アルゴリズムが比較的単純で、フォロワーが多いほど投稿が見られやすく、拡散されやすい傾向があったためだ。ユーザー数も今ほど多くなく、フォロワー同士の関係性が比較的濃かった時代には、数字と実態の乖離はそこまで大きくなかった。 しかし現在は状況が大きく変わっている。ユーザー数は増え、利用目的も多様化し、フォロワーという数字そのものが簡単に操作できるようになった。その結果、フォロワー数=人気という前提は、実態を反映しない記号へと変質した。 Xにおいて、フォローは必ずしも好意や支持を意味しない。反論のために発言を追う、議論で迷子にならないために相手を把握する、思想や立場を継続的に確認する、といった理由でフォローされることも珍しくない。嫌いな相手をフォローすることすら、Xでは合理的な行動として成立する。 そのため、フォロワーが何万人いても、いいねやリポスト、引用がほとんど発生しないアカウントは普通に存在する。一方で、フォロワー数が少なくても、投稿が頻繁に引用され、議論の起点になる人もいる。Xにおいて影響力を生むのはフォロワー数ではなく、反応と波及である。 Instagramも一見するとフォロワー数が重視されているように見えるが、実際のアルゴリズム評価は別の場所にある。現在のInstagramでは、保存、シェア、視聴完了率、滞在時間、プロフィール遷移といった行動シグナルが重視されており、フォロワー数そのものはほとんど評価対象になっていない。 フォロワーが...

LLM時代のブログ

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私が書き続けたい理由 最近、ブログというものの在り方が大きく変わってきたと感じている。 特にここ数年で、LLMの台頭によって文章生成のハードルは大きく下がり、個人ブログであっても、かなりの分量の文章を短時間で用意できる時代になった。 私も、そのひとりである。 実際、今ネット上にある多くのブログは、程度の差こそあれLLMの力を借りて書かれているのではないだろうか。 下書き、要約、構成整理、言い換え。 どこかの工程にLLMが関与していること自体は、もはや特別なことではない。 一方で、LLMが存在しなかった時代から続き、今も一定の人気を保っているブログがある。 それらを読んでいると、内容以前に「読み方が分かる」「迷わず読める」という共通点があるように思う。 文章が特別に上手いかどうかよりも、構成が安定しており、読者が途中で疲れない。 これは才能というより、長年の積み重ねによって作られた型の力なのだろう。 プロの物書きであれば、文章は本人の手を離れ、編集者や校閲者の目を通って整えられる。 書き手は内容に集中し、構成や読みやすさは別の専門家が担う。 しかし、個人ブログではそうはいかない。 書くのも自分、構成を考えるのも自分、読みやすさを担保するのも自分だ。 実際にやってみると分かるが、これは想像以上に大変である。 文章を書くこと以上に、「どう読まれるか」を常に意識しなければならない。 段落の切り方、改行の位置、話題の区切り。 どれも地味な作業だが、読みやすさに直結する。 私は文章力も編集力も高いとは言えない。 だからこそLLMを使う。 これは思考を代行させるためではなく、編集工程を外部化するための選択だ。 ただし、LLMを使えば自動的に読みやすくなるわけではない。 指示を与えなければ、文章は簡単に散らかる。 LLMは非常に便利な道具だ。 しかし、放っておくと「それらしい文章」を量産する方向に最適化される。 読みやすさよりも、 一般的であること、 もっともらしいこと、 検索に引っかかりそうなこと。 その結果、タイトルだけが大げさで、中身は薄く、広告に分断された文章が大量に生まれる。 正直に言って、そうしたブログを読む気は起きない。 私は、そうはなり...

中国経済の独りよがりを問う

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「売るだけで買わない」発想が招く分断と保護主義  近年、中国経済をめぐる議論の中で、看過できない発言が目立っている。その象徴とも言えるのが、「世界に中国製品は売っても、海外から買うものはほとんどない」という、中国経済界の一部から聞こえてくる認識である。Wedge ONLINEの記事は、この発想がいかに危うく、世界経済全体にとって有害であるかを指摘している。 貿易とは本来、相互に売り、相互に買うことで成立する。輸出国が存在するためには輸入国が必要であり、その逆も同様だ。これは経済学の理論以前に、国際社会が長年の経験の中で積み上げてきた基本原則である。それにもかかわらず、「自国は売る側であり、買う側としての役割はほとんどない」という発想が公然と語られるようになっていること自体、異常と言わざるを得ない。 もし中国が本当に「海外から買うべきものはほとんどない」と考えているのであれば、なぜ世界市場に依存し続けるのかという疑問が生じる。なぜ他国の市場に製品を売り込み、外貨を獲得し、国際物流や金融システムに深く組み込まれているのか。その一方で、相手国の要望や不満、産業への影響には耳を貸さないという姿勢は、自由貿易ではなく片務的な取引に近い。 このような態度が長期的に受け入れられるはずがないことは、近年の世界情勢が示している。関税の引き上げ、輸入規制、サプライチェーンの再構築、国内回帰政策。これらはすべて、「売るだけで買わない」「市場は使うが責任は負わない」という国や企業に対する、各国なりの防衛反応である。 ここで、あえて挑発的に述べたい。もし本当に「海外から買うものは何もない」「自国だけで経済が完結できる」と言うのであれば、いっそ鎖国すればいい。そして、その方が世界は少し平和になる。 この言葉は、感情的な罵倒ではない。論理的な帰結である。自給自足を標榜し、相互依存を否定し、他国の要望を無視するのであれば、国際社会と深く関わり続ける理由はない。鎖国とは、自国のみで完結する覚悟を示す選択であり、それを選ぶなら、世界に対して不満や要求を突きつける立場も同時に失う。 また、「鎖国すれば世界は少し平和になる」という表現には、具体的な意味がある。国交がなければ外交摩擦は起きにくい。人的往来が減れば、海外で問題視されている迷惑行為も減る。技術や知的財産を不正に取得し...

謹賀新年

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あけましておめでとうございます。 新しい年を迎えましたが、現実を直視するならば、日本を取り巻く状況は決して楽観できるものではありません。 政治、経済、技術、国際関係、そして社会の分断。どの分野を見ても、問題は解決されるどころか、むしろ複雑さを増しているように感じます。 このブログではこれまで、LLMや生成技術の限界、日本社会の構造的な歪み、国際政治における日本の立ち位置などについて、個人の視点から考察を重ねてきました。 それは誰かを煽るためでも、結論を押し付けるためでもありません。 「当たり前」とされている前提が、本当に妥当なのかを問い直すためであり、思考を止めないための記録です。 新年だからといって、急に世の中が良くなるわけではありません。 しかし、何も考えずに流される一年と、疑問を持ち続ける一年とでは、個人の内側に残るものは確実に異なります。 今年も引き続き、このブログでは、過度な楽観にも、単純な善悪二元論にも、技術や権威への無条件な信頼にも距離を置きながら、考えたことを言葉にしていきます。 読む方に同意を求めるつもりはありません。 ただ、考える材料として、何か一つでも残ればそれで十分です。 本年も、静かに、しかし妥協せず書き続けていきます。